目指せおもちゃのカンヅメ、その4……


それは、

古代エジプトやメソポタミア文明の栄えてた頃に、

サイコロなど道具を用いて運命を占うってあたりに

萌芽の見られるようで、


本格的に体系化がなされてくきっかけに、17世紀、

フランスの数学者にブレーズ・パスカル(考える葦のひと)と

ピエール・ド・フェルマー(フェルマーの最終定理のひと)

そのお二方が「賭け事」についてやった議論のそこから。

勝負の途中で掛け金をどのように分配するか、という

「分割問題」に対しその計算方法が考え出されたのだと。

そうして、クリスチャン・ホイヘンス(土星の衛星タイタン

発見したひと)や、ジェイムズ・ベルヌーイ(たとえば飛行機が

速く安全に飛べるのこのひとの流体力学の定理あるから)ら

数学者たちによって発展、


18~19世紀にかけて、数学者のピエール=シモン・ラプラス

(ラプラスの悪魔のひと)によってさらに一般化、

あらゆる不確実性(先の読みにくいような事象とか)を

定量的な測定(数字の上ではこうなるよ、的な)として捉え、

その論の基礎を築き、


20世紀、数学者のアンドレイ・ニコラエヴィッチ・コルモゴロフ

によって公理化(そこに証明要らずで数学のジャンルとして

学べるような具合)されて、現在さまざまな分野(たとえば

わかりいいのに天気予報とか株式相場とかAIの学習などなど)に

応用されてる、


現今、意思決定の際や不確実性の評価検証などに欠かせない

道具となってる、


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……ということで、『確率』ってどう生まれたの?

そこんとこチャットGPTさんに尋ねてみて、その回答を

わたしのあまあまな解釈もまじえつつ綴ってみたんですけど、


『確率』って呼称で公理化されてるけど、

そこからはじき出される数字にあくまでも“数字”で、

絶対ではなくて、そう測定できる、もの。

「この先こうなるよ」って計算結果から大きくはずれたとしても、

それは「小さい確率で今ふうに当たってたよ」って

換言できる、もの、


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そんな『確率』ありきのチャットGPTさん、

こう教えてくれてます、


“森永チョコボール”でおなじみ金のエンゼルマークの出現率に、

1000個購入で少なくとも一枚当たる確率に63%以上、

3000個購入だと同様に95%以上、


それから銀のエンゼルマークの出現率に、

30個購入で少なくとも一枚当たる確率に63%以上、

89個購入だと同様に95%以上、って、


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わたしの場合、それほど購入したおぼえはありません、

けど、それってつまり、エンゼルマークの出現率を念頭に、

本来わたしが購入し残念するはずだった「他のはずれ個数分」を

どこかのだれかさんがわたしの代わりに購入してくれた、

ってことなんですよね、当たり前のこといってるだけですけど

(反対に、こちらがだれかさんの喜びに協力してる、とも)、


そうあって、結果、

銀のエンゼルマークに五枚揃いました、

(おなじところで購入してる)どこかのだれかさんへ、

ご協力ありがとうございます。


エンゼルマークをしかるべき先へ送って

例のブツを頂くことにしますね(ΦωΦ)フフフ…。


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目指した地点に至ったけれど、

つづけて食べたいときに購入してます。。。


「逢沢りく(上下巻)」に、……


遅ればせながら。猫村さんは実写の観てました。



上下巻ともに:2014年10月25日 第一刷発行/1000円+税


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以下感想に長々しくなく。ネタバレみたいなのご容赦


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十四歳のりくに清澄のほどを読みました。


その蛇口をひねるかっこうでなく心底からの、

ひざをつきこらえきれぬ胸から声を上げ滂沱とする最後に、

泣きました。


お話の肝に、親せきの幼い子“時ちゃん”とのかけ合いに、

そのときだけは普段とかわって自身を発してるりく。

双方いつわりのないかけ合いに、それはもうなくてはならない

“時間”で、だからその役割に踏まえられた上で“時男”って

名前がつけられたものと。


そもそも、

りくの父親が会社のアルバイトの女性と不倫してる(そのこと知ってる)、

母親も(りくを関西へやってから)過去つき合ってた男性と会う、

(本文に借りるなら)“大人として間違った”そんな両親と

同じ屋根の下で暮らしてるんだから、そこに思春期ってのも加味に、

感覚に鋭敏となってしまう、蛇口をちょっとひねるように

涙を流せてしまえるのもそうでしょう。


転校先(大おばさん家)に、その、

ぼけとツッコミの常日頃にそんな喋りようのまんべんない環境、

ってところに、作者が関西の方、嵯峨美(昔は短大)出てるから、

実際に親しくある土地柄を設定したものと、いえ、設定などと

ネームに構えずとも自然に必然にそうなったのに違いないものと。

そこに、もし引っ越し先が別の土地柄だったならお話の雰囲気に

どうなってたかなと、“時ちゃん”の存在はおそらく不可欠として、

その異なる線に思いのよぎったり。

転校先だけでなく“両親と住まう地”もひっくるめて、

そこんところの、土地柄を読む、という風趣の作品とも。


楽しくないし嫌いとする運動に片思いされてるそんなりくの、

足の速いところが軽妙なアクセントといった感で。